ただ、逢いたかった。
 それだけで、他の事は何一つ。
 ――何一つ、考えなかった。








 平行面












<NOIR―ノワール―>



 聖夜の町は柔らかな騒めきに満ちていた。
 小さな子供が手に抱えたプレゼントの、リボンに付けられた鈴が歩くたびにチリチリと音を立てる。
 そこかしこで聞こえる『メリークリスマス』の言葉。遠くから聞こえる音楽は教会の聖歌だろうか。
 家々の窓辺で蝋燭の火影があえかに揺らめいている。
 そして足元に降り積もった雪は闇夜の中でも尚、煌くような銀白の光を放っていた。

 誰も彼も愛する人と幸せそうに微笑みながら、家路へと足を急がせている。
 クリスマスだからか、街にはこの時間でもいつもより人が多く外に居るようだった。
 今夜は、流石に気付かれることは無いだろう。
 道を歩く人々の中に紛れて歩く男は、数日振りに肩から力を抜いた。

 
 男は、脱獄者だった。
 この近隣にある刑務所から脱獄して数週間ほどになる。その数週間ほどの間に、手配書も回った。
 次第に狭まっていく包囲網。だが、男は何故かこの町から逃げ様とはしない。
 官憲の手から逃げおおせて、例えば何処か遠い国へ逃げ込むとか。そんな手段なら幾らでもあるけれど。
 この町から離れられない、たった一つの理由があったから。





「…………」

 ぼんやりと物思いに耽っていた男は、ぴくりと肩を震わせた。
 此方を、不審げな眼差しで見ている相手がいる。
 警察の黒い制服。背筋がひやりとする。出切る限り堂々と、その前を通り過ぎた。

「…そこの君。ちょっと」
 声をかけられ、思わず身体が跳ねる。
 何か。そう言って振り返ろうとした時、近くで小さな女の子の泣き声が聞こえた。

「パパ?パパぁ…!?」
「すみません、お巡りさん。何だかこの子、親とはぐれちゃったみたいで…」
「え…?あ、ああ。分かりました…」
 幼い少女の手を引いた人の良さそうな男に袖を引かれて、警官は思わずそちらを振り返る。
 その隙に不自然にならない程度に足を速め、その場を離れた。
 火のついたように泣いては父親を呼びつづける、その少女に感謝しながら。





 矢張り、この金髪は目立つのかと男はやや長くなった前髪を指先で摘む。
 手配書でも、背格好の次にまず挙げられていた特長がこの金の髪だった。
 染めようと思えば、出来ないわけではない。外見の印象だって、変えようと思えば幾らでも変えようがある。

 でも、危険を承知で昔のままの外見で居続けるのは、この町を離れない理由と同じ。
 もう一度逢えたときに、『彼』に分からないようでは意味が無いから。



 逢いたくてただ逢いたくて。でもあの場所には『彼』は居なかったから。だから脱獄した。
 したいことをしたいだけするというごくシンプルな行動原理を実践してきた彼にとってそれは当然の行動だった。

 脱獄して最初に思い知ったのは、小さな町の意外な広さ。
 手がかりになるものは名前だけで、それだけで一人の人間を探すことの余りの難しさ。

(あれだけ深く繋がったのに)

 彼の泣き顔も悲鳴も喘ぐ声も血の色も粘膜の熱さも唾液の味も全部全部知っている。
 この町に自分ほど彼を知っている人間が一体何人いると言うのだろうか。
 …だが、自分の中にあるその情報のどれ一つとして、彼を探す役には立つものは無い。

(もう、時間が無い)

 狭まる包囲網。あとどれだけ自分はこの町に居られるのだろう。
 迫るタイムリミット。本当に名前しか分からない彼を見つける事は出来るのだろうか。

 …例え見つけられたところで、別段彼に何かを期待している訳ではなかった。
 愛情なんて望めるわけが無い。彼にとって自分の名は、憎しみと恐怖の代名詞だろう。
 でもそれでも構わない、と男は薄く笑んだ。

 自分と言う人間が檻の外へと解き放たれた事をその目でもって確認して。
 そうして、ずっと怯えていてくれたらいい。
 ずっとずっと、恐怖と焼き付けられた傷の痛みをもって自分の事を忘れないで居てくれたら。それだけで。


 それだけで、自分は幸せなのだと。









 気付けば、日付がもう変わろうとしていた。
 幼い子供らは流石に家に帰ったのだろう。道には寄り添う恋人たちの姿が多く見られる。
 甲高い子供の嬌声が止んだだけで、辺りは随分と静まり返ったように感じられた。
 サクリ、サクリという先程まで聞こえなかった雪を踏む音が耳に届く。
 俯いて、一歩足を進めるごとに靴の下で汚れる雪を眺めていた男が、不意に顔を上げた。
 まるで、何かに呼ばれでもしたかのように。


 そして、そこに『彼』を見つけた。

 聖夜の奇跡。そんな陳腐な言葉が頭を過ぎる。


 何人もの人間が二人の間を通り過ぎていった。
 だが男には『彼』しか見えなかった。一度見つけたら、もう二度と見失う事は無い。
 やや大きめの黒いコートに、トレードマークの緑の帽子。
 鮮やかなオレンジのマフラーを首に巻きつけて、傍らを歩く男に笑いかけている。
 キツめの大きな金目も生意気そうな勝気な表情も。あの頃と何一つ変っていなくて。

 心が、震えた。

「……イズ」
 からからの喉で呟いた声は雑踏のざわめきに溶けて消える。
 真っ正面から此方に向かって、彼が歩いてきた。
 男も歩く。二人の距離が狭まる。
 

 5メートル。

 3メートル。

 2メートル。

 …1メートル。


「ガイズ…!」
 掠れた声で男は名を呼んだ。

 すれ違ったのは一瞬。

 その時『彼』は――ガイズは、前を見ていた。
 傍らの男に腕を絡めて。『前だけ』を、見ていた。




 ガイズが遠ざかっていく。
 『男』は――デューラは、振り返る事も出来ない。


 憎しみも恐怖も…怒りすら。何一つ、ガイズの中には無かった。
 すれ違ったデューラの存在に気付きもしなかった。
 ガイズの世界に、もう自分は痕跡すら残されていない。
 …それが、答えだった。




「…………」

 肩が小刻みに震えた。不自然に引き攣り歪んだ唇は、笑っているようにも泣いているようにも見えた。














<BLAC―ブラン―>



「どうした?ガイズ」

 傍らに居ながら、心此処にあらずなのが分かったのだろう。ルスカが声をかけてくる。

「疲れたか?もうそろそろ、家に帰るか」
「…ああ。大丈夫だよ。それより折角のクリスマスなんだから、もうちょっと歩きたいな」
 そう言って甘えるように絡めた腕に力を入れると、ルスカが照れたように笑う。
 大好きなその顔を前にしながら、だがガイズの意識は見る事の叶わない背後に集中しつづけていた。

(今の……)

 夜で。あの時とは服も違っていて。
 真っ正面から姿を見たのはすれ違ったほんの一瞬だけだったけれど。確かにあれは。

(デューラだった、よな…?)

 振り返って確認したい自分を、必死に押し留める。
 代わりに鏡のように光るショーウィンドウに目を遣り、背後の様子を伺った。
 騒ぎになっていないところを見ると、どうやら大丈夫だったのだろう。ほっと息をつく。

(脱獄したって話…本当だったんだ…)

 噂には聞いていたし一時期周りで騒ぎにもなったが、どこか現実味を感じられなかった。
 本人を目の前で見るまでは。

(…デューラ…)
 殺してやりたいほどに、憎かった相手。
 『憎かった筈の』相手。なのに。

(どうして俺、さっきあんなことしたんだろう…)
 ぼんやりと先程の出来事を思い出す。
 どうして自分は、あの男を『助ける』ような真似をしたんだろうか。





 金の髪が視界を掠めた瞬間、電流に打たれたように直ぐに分かった。デューラだと。
 看守服以外を着ている姿を初めて見たけれど。ほんの少し髪が伸びていたけれど。すぐに分かった。
 あの3年間で、下手したら一番長く共に過ごした相手かも知れないから。

 再会することがあったら、自分はどうなるのだろうと思っていた。
 泣くだろうか。怯えるだろうか。それとも怒るだろうかと。

 …だが、あの瞬間胸の内にあったのは、意外な友人に出会ってしまったような、純粋な驚きだけだった。
 デューラ。なんの気負いも無く、そう呼びかけそうになった。


 その言葉を咄嗟に飲み込んだのは。
 通りの向こう側に、不審げに此方を見ている幾人かの警察の姿が目に入ったから。


 今思っても自分は馬鹿なことをしたと思う。
 叫べば良かったのだ。デューラ、と。脱獄者が此処に居る、と叫べば良かったのだ。
 デューラはきっと自分を恨んでいる。野放しにしておけば、復讐に来る事だってあるかも知れない。
 通報せよ。理性はそう叫び続ける。
 だがデューラの目を見た瞬間、何の根拠も無いが直感的に確信した。

(…アイツ、誰か逢いたい人が居るんじゃないか…?)

 その感情には覚えがある。
 あの刑務所での年の暮れ。どうしてもどうしてもルスカに会いたいと思ったことがあった。
 実際、ふらりと外へ出そうになった。慌ててジョゼが止めてくれていなければ、何をしていたか分からない。
 あの時頭の中にあったこと。それは『脱獄したい』とか『逃げたい』とかそう言ったことでなく。

 ただ、会いたかった。それだけが全てだった。

 保身も打算も何も無く、ただただ逢いたくて。


 デューラの目はあの時の自分と全く同じ色を宿していた。…それは、狂おしいほどの切望。
 何もかもが思い通りになりすぎて、却って何もかもに飽いていたように見えたデューラ。
 そんな彼の必死の顔を、初めて、見た。


 『助けてやる』なんて考えは思い上がりなのかも知れない。
 所詮、今現在満たされている人間の単なる気持ちいい自慰行為で、自己満足に過ぎないのかも知れない。
 それでも、あのデューラが初めて必死で『何か』を、『誰か』を求めている。昔の自分と同じに。
 …助けて、やりたかった。



 デューラが此方に気付く。祈るような思いでガイズは前を向く。
 声を出してしまいそうになるのを、不自然に顔を向けてしまいそうになるのを必死で堪える。

 少しでも反応をすれば傍らのルスカにも、周囲を張っている警察にも彼の正体はばれてしまうだろう。

 距離が縮まる。2メートル、1メートル…

「ガイズ…!」

 すれ違った瞬間、デューラの囁く声が聞こえた。
 思わずひくりと身が竦む。警察には、聞こえなかったか。隣のルスカには聞かれなかったか…!
 振り返りたい自分を、意志の力を総動員して宥めた。
 眼球は真っ直ぐ前を。前だけを、見詰める。視界の端に流れ去る金色だけが一瞬掠めて。


 そして一瞬の邂逅は終わった。







 それから暫く経ったが、背後で騒ぎが起こる気配はまるで無いようだった。
 『成功』…したのだろう。きっと。


「…さっきから本当に…!俺の話聞いてないよな、お前…」
 上の空な様子に本格的に拗ねてしまったらしいルスカの声を耳にし、ガイズは慌てて我に返る。
「ごめん!悪かったよ…ルスカ」
「もーいい」
「拗ねるなってばぁ…」
 じゃれつくようにその後ろ髪をついついと引っ張る。
 不意にこうやってルスカに甘えていられることの奇跡を思った。

 もしも未来へと続く道を一本でも間違えていたら。あの刑務所からは一生出られなかったかも知れない。
 事によっては、警察に追い立てられて雪の中を彷徨っていたのはデューラでなく自分だったかも知れない。



 だからこそ。この何万分の一かも知れない奇跡に感謝しつつ、ガイズは願わずに居られないのだ。




 どうか。

 どうか彼が、彼の『特別な人』に無事出会えますように。

 …どうかこの聖なる夜の奇跡が、彼の元にも起こりますように。



















 


 平行面は決して交わる事は無い。
 どちらも悪くなくても、決して。

 黒と白の平行面に分かたれてしまった二人の、聖夜の悲劇。















END

















…こんなもの聖夜にUPしちゃいけません、というお話。
清々しいほどすれ違いラヴ。




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