最初の夜明けは 一人きりで迎えた 夜明け前 軋む身体をざらついた床の上に横たえてただぼんやりと目を開いていた。 酷使された身体はこれ以上ないほどに疲弊しては居るのだけれど、涙を流しすぎて水分の足りなくなった目はぴしぴしと音を立てそうなくらいに乾いていて。瞼を閉じる事さえ、出来なかった。 足の間を伝い落ちた液体も(それが白だか赤だかこの暗闇の中では分からなかったけれど)同じように乾いて粘性を失い、腿の内側の皮膚を少しだけ引き攣らせている。 少しでも身じろぎしたら、この目も幾種もの液体が纏いついた脚もその奥の引き裂かれた部分もこんな目に逢いながら悔しさとか哀しさとかそんな当たり前の感情すら浮かんでこない空っぽの胸も全部全部。ぱりぱりと脆いパイ生地か何かのように崩れ去ってしまいそうで。 だから、じっとしている事にした。 真っ暗闇の中で天井と思しきところだけを見詰めて数時間。 そろそろ飽きてきたかと思った頃に、この地下の部屋にほんの僅かな変化が現れた。 天井近くの四角い穴。 換気用なのか僅かブロック一つ分だけ開けられたその穴には、人が通れる筈も無いのにご丁寧に4本の鉄格子が通されている。 その格子の隙間を通して、『青』がガイズの顔を照らした。 ごく小さな窓から入り込んだ光が、一瞬部屋の全てを青く染める。 (夜明け前の光って青いんだ) 程なく、光は元の薄金の色を取り戻した。だが幻のようにほんの一瞬広がった『青』は空っぽの胸の中にもゆっくりと沁みた。 喜びや哀しみや感情を全て置き去りにした先でただガイズは『綺麗だ』と思った。 それが、最初に見た夜明け前の青。 次にその青を見たときは、あの男が傍に居た。 解放された時はもう、夜明けも近かったのだろう。 意識を失っていた時間は、小さな砂時計を3回ひっくり返す程の間も無かった筈なのに、目を覚ました時は部屋の全てが正に青に染まろうとしている所だったから。 身体は痛かったけれど、綺麗な物をまた見られるのが嬉しかった。 そして青に染まった空気を壊したくなくて身動きもしなかったから、だから気付くのが遅れた。 傍らで腕を組んだまま、煙草を燻らせていたデューラに。 視界に映る床に、自分以外の奇妙な影が見えて、そこで初めてまだ彼が此処に居たのだと気付いた。 もうとっくに立ち去っていたものと思っていたのに。 きろ、と眼球だけを動かせば、ガイズが起きている事に気付いたのかデューラの革靴がコツコツと音を立てて目の前まで移動してくる。 磨きぬかれた靴の爪先が目に映って小さく息を詰めた。 ゆっくりと持ち上がった足が、うつ伏せたガイズの脇腹にかかる。 蹴られるのかとも思ったが予想は外れた。硬い靴底はうつ伏せた身体をぐるりと180°回転させて仰向けにする。 見上げたデューラの表情は『青』の中で陰になっていて、量る事は出来ない。 痛いことをされなかった。 それだけは分かった。 青の中で灯火のように橙の小さな火が揺れる。 長くなった煙草の灰が耐え切れず崩れ落ち、ガイズの裸の肩をチリ、と灼いた。 それだけがほんの少し、痛かった。 その次に夜明けを見たときも、彼は隣に居た。 いつもの荒淫の果てに意識を手放して。そして目が覚めたときにまだ彼は傍らにいた。 今度は相当長い間気を失っていたのだろう。彼の周囲の床には短くなった吸殻が幾つも散乱していて、白い蟲のようなその残骸が時間の経過を雄弁に物語っていた。 いつもは壁に背を持たせかけて立っているデューラが、流石に今日は待ち疲れたのか片膝を抱え込んだまま床に座り込み、顔を伏せて瞼を閉じている。 見詰めていると視線に気付いたのか瞼を開き此方に眼を向けたから、元々眠ってはいなかったのだろう。薄っすらと青い光を受けて色の薄い皮膚がセルロイド人形のようだった。 ガラス玉の質感の目が瞬きすらする事無く此方を見ている。 感情を何処かに置いてきたような視線。指先がすい、と伸ばされて何の他意もなくただガイズの頬に触れる。 暫く頬を撫でていた指先が一度離れ、今度はその手のひらでそっと両目を覆った。 眠りを促すような動きに抗わず、ガイズは瞳を閉じる。 何故か恐怖は無かった。 心音も、酷く凪いでいた。 静寂の中。視覚を閉ざされ、触覚だけが全てとなる。 乾いた手のひらがあってはならない優しさをもって、一度だけガイズの瞼を撫ぜた。 それだけがほんの少し、痛かった。 あの部屋での最後の夜明け。 その時も彼は傍に居た。遠い約束のように。 意識を取り戻せば、僅かに明るくなりつつある部屋にデューラが居た。 行為の後でボロ雑巾のようになったガイズの身体を投げ捨てるように此処に残して立ち去った事も始めのうちは何度も何度もあったのに。 何時からだったのだろうか。 ガイズが意識を失った後も、彼が傍に残るようになったのは。 何時からだったのだろうか。 眠るガイズの傍らに座って、その目覚めを待つようになったのは。 何時からだったのだろうか。 最初ガイズから明らかに距離をおいて座っていた彼が、眠るその身体にそっと寄り添うようになったのは。 …何時から、だったのだろうか。 寄りかかったデューラの肩に頭を持たせかける。制服越しのデューラの体温を感じる右半身とは裏腹に、冷え切った空気に晒される裸の左半身が流石にじわりとした寒さを訴え出した。 爪先の感覚が無い。ふる、と身体を震わせたガイズに気付いたのかデューラが左腕を伸ばしてガイズの肩を引き寄せた。 触れる掌から染み透る熱。瞳を伏せてニ、三度瞬きをする。視界を僅かに滲ませた泪液は眼球の表面に拡散して零れ落ちるまでには至らなかった。 これはある筈の無い幻だから。涙を流す理由なんて無い。 ある筈の無い『青』の中で。 ある筈の無い『暖かさ』に。 ある筈の無い『優しさ』を感じた。――それだけの事なのだと。 日が昇る前のほんの一瞬。全てが青に染まる瞬間の幻。 それでも。 確かに『幻』だけれど、其処に『嘘』は無かった。 『ある筈の無いもの』だけれど、『偽り』ではなかった。 日が昇り切れば、二人の全てが劇的に変る。 最後である事を二人ともが知っていて、そして抗わなかった。 右半身と左肩で受け止める熱。床に敷き詰められた煉瓦の冷たさ。その上で紺色に長く伸びる、元は二つだった一つの影。 青に染まった部屋の中で、一言も発する事の無いまま初めての口吻けを交わした。 そして今、あの刑務所から離れ一人きりで夜明けを迎える。 暖かい部屋の暖かいベッドの中、暖かい毛布に包まれて。 それなのに。それなのにほんの少しだけ。 …寒いのは、何故。 END |
…分かり難い話。 多分、ガイズの出所当日朝の話です。 幻の青の中、二人きりの最後の逢瀬。 |
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