3. 窓の無い廊下はまだ昼間だと言うのに鬱々とした暗さを湛えて何処までも何処までも長く感じられる。 ガイズが腕に抱えていたシャツの束も、もう殆ど各看守の部屋へ届け終えて残りあと一枚を残すのみだった。 その最後の一枚に付けられた、小さな小さなネームタグの名前は。 「…い、じょうぶ…」 廊下を進むガイズの口から、呪文のような呟きが漏れた。 「…だい、じょうぶ……俺は、大丈夫、だから…」 小さく呟きながら、冷たくなった指で忙しなくポケットの中を探る。まだ余っていたキャンディーを一つ、僅かに震える指で摘み出した。 硝子玉のように澄んだ赤を湛えるそれは、口に含めば優しい甘さでもって昂ぶった神経を落ち着かせてくれる。 「『行く』って、自分で言ったんだろ…しっかりしろ、俺…」 一度足を止め、幾度も幾度も深呼吸した。 目を閉じれば、出掛けに見た心配げな老女の姿が瞼の裏に浮かぶ。 『無理しなくていいんだよ』 『お前が行きたくないのなら…』 そう言ってベッドから身を起こそうとした彼女に首を振ったのは誰だったか。 あの仕事場で。最初にその名前を目にしたときの衝撃と恐怖を、今でも覚えて居るけれど。 冷たい水と洗濯石鹸の相乗効果の所為か、ガイズの手はこの仕事を始めてからたちまちの内にあかぎれだらけになってしまった。 母親の仕事も洗濯屋だったし、自身も刑務所では自分の服を洗濯をしたりしていたが、それでも業としてやるのでは矢張りこなす量が違う。 「痛ってぇ…」 ぴりぴりと痛む手を宥めつつ、パン、と洗いあがったシャツを叩く。この瞬間が、ガイズの一番好きな瞬間だった。 「よし、終わっ…て…ないや」 ぐっと伸びをした途端、視界に入った洗濯物にガイズはげんなりと眉を下げる。 「しかたねーなー…もう」 そしてぶつぶつ言いながらも、作業台の上に山になったシャツを抱え上げた。 「小母ちゃん、次洗うの、コレ?」 そう何気なく呼びかけて振り返った時、不意にふわりと鼻先に漂った煙草の匂いにガイズは眉を顰めた。 「…………?」 自分の吸っている煙草のものではない。でも、確かに覚えがある。 思い出すな、とココロの何処かで叫ぶ声が聞こえたような気がしたが、それ以上に確かめなければならない思いに駆られて、ガイズはシャツのタグを一枚一枚探った。 「ガイズ…!いいんだよ、それはアタシが…!」 はっとガイズの抱えたシャツに気付いた老女が、焦ったように駆け寄ってくる。 どうして、彼女はそこまで焦って居るのだろうとガイズは不思議に思って手を止めた。 「小母ちゃん…?」 「ダメだったら!!」 乱暴にシャツを取り上げられた瞬間、ガイズの目の端を掠めた二つの名前。 ”シルヴェス”。 …そして”ジャーヴィー”。 「……………」 一つだけなら、偶然で済む。 同じ名前の別人なのだと。 だけど、それが二つも重なったら? 「ガイズ!おやめ!」 悲鳴を上げる老女の手から、取り上げられたシャツを再び取り返す。そして狂ったようにタグを捲りつづける。 シルヴェス、ジャーヴィー、マイシェル、グラン、イグラム、マウロ、デューラ。 ”デューラ” ずる、とガイズの手からシャツが滑り落ち、床にばさりと広がった。 漂う煙草の匂いに、覚えが無い筈がない。 …それは、あの男のものだったのだから。 「…小母さん、刑務所に出入りしている洗濯屋だったのか」 「…そうだよ」 俯いたガイズに、静かに彼女は口を開いた。 「だから、刑務所帰りの俺を雇ってくれたんだね…」 「…ああ。アタシはあそこに出入りしている分、色々な囚人を見てきたからね。…みんな、化物なんかじゃなかった。犯罪を犯していても、アタシ達と変らない人間だった。アタシはそれを知っていたから、だから」 「仕事が見つからなくて苦労している俺を…放って置けなかった…」 そう、と静かに彼女は頷く。 「…でも、刑務所にも出入りしてる事はずっとアンタには黙っていようと思っていたよ。だってアンタ、未だに魘されてるだろ?時々、刑務所のこと思い出して吐いたりしてるだろ?言える訳、無いじゃないか…!」 あの刑務所の噂は、あたし等の耳にだって届いているんだ、と彼女はぽつりと呟いた。 「アンタがどんな真似をされたのかなんて聞かない。傷口を抉るような真似は、アタシはしたくないから。だからガイズ、この仕事のことは忘れなさい。刑務所にはアタシが行く。刑務所からのものは、アタシが洗う。アンタはもうそんな辛い事を思い出させるものに、近づかなくていいから…」 だから、と呟いて彼女はガイズを抱き寄せる。母親にされるような抱擁にガイズは黙って目を伏せた。 言葉通り、それからも彼女は刑務所からのものに一切ガイズを近づけなかった。…そしてガイズも彼女のその好意に甘えた。 洗濯屋の仕事をこなして。時々はエバやルスカを手伝って。ジョゼともたまにケンカして。イオの仕事場を覗きに行って。スケッチに行くヴァルイーダに同行して。――あの時の話だけは、出さないままに。 ――そして時間は過ぎ。 あの暗い思い出から目を逸らして逃げ込んだ先の平和な日常は、僅かずつだが確かにガイズの心を癒してくれたようだった。 「…いつもね、アタシが行くと洗濯物を取りに来てくれる子が居るんだよ。強面だけど、アタシがキャンディをあげると本当に子供みたいに喜んで…」 「嘘。そんな奴、居たかなぁ?」 看守の話をされたのに、ごく自然に笑うことが出来た自分にある日ガイズは気付いた。 少しずつでも確かに自分の傷は快方に向かっているのではないかと、その時漠然とだが希望を持った。 何時か――まだ何時になるかは分からないがあの男の事を思い出しても、怯えないで済む日がやって来るのかも知れない、と。 だから今朝。 ベッドの上から幾度も幾度も心配そうに声をかけてきた彼女に、言ったのだ。 「ガイズ。本当に大丈夫かい…?無理しなくったって…」 「大丈夫だよ、小母ちゃん!俺もう囚人じゃないんだし、たかが洗濯物を持っていくだけだろ?中に入るわけじゃないし、平気だって!」 常より大きな声で答えるガイズの嘘に気付いている筈の彼女は、だがそれ以上は何も言わず、黙って微笑んで送り出してくれた。 微かに震えるガイズの足にも、気付かない振りをして。 「……………大丈夫」 魔法の呪文のようにガイズは繰り返す。 「…大丈夫…怖くなんか無い」 意を決して、軽くドアを叩いた。 コンコン、という軽やかな音の後に、入れ、という横柄な返答が返る。 居なければ良かったのに、と未だ往生際悪く思う自分を叱咤して、ガイズは扉を――デューラの私室の扉を、開けた。 淀んだ部屋の空気に混じって届く煙草の匂いが、ガイズの心をあの頃まで巻き戻す。 ← → |
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