4.


 部屋の中は、昼間だというのにカーテンが締め切られ、薄暗かった。
 相変わらず綺麗に片付いた部屋なのに、薄暗いのに加えて空気の入れ替えもしていないのか、どこか全体的に淀んだような雰囲気を醸し出している。

 そしてそれは、部屋の住人も例外ではなく。

 一見して、彼の態度はガイズの覚えて居るものと変わりなかった。
 椅子に座ったまま、執務机の上に両足を投げ出している。
 靴の下で書きかけらしい書類は見るも無残にぐしゃぐしゃになり、机の周囲にも丸まった紙がゴミ箱にすら入れられず、床に散乱していた。
 今日も、仕事をしていないのだろう。…いつものように。

 だが、今ガイズの目の前にいるデューラは、記憶にあるそれと同じようでいて、決定的に違う箇所があった。
 一言で言えば、『覇気が無い』とでも言うのだろうか。
 切れ長の目がぼんやりと薄く開かれて、一瞬眠っていたのかとも思った。
 入ってきたガイズを黙って見返す、その眼差しも焦点が定まっていない。
 心なしか目の下に隈があるように見える。そしてどこか憔悴しきったような雰囲気があった。


「…ああ、お前か」
 漸く口を開いたデューラが、呟いた。だがその言葉にガイズは違和感を覚える。

 …如何して、デューラは此処にガイズが居る事を不思議に思わないのだろうか。
 …如何して、まるであの日々の続きのように、此処にガイズが居る事を当然の物として受け止めているのだろうか。

 …自分は出所して自由になったと思ったけれど、それは本当に『現実』の話なのか? 
 …刑務所の中で絶望しきった末に見た、夢ではないのか?

 危険な思考に嵌りそうになる自分を叱咤して、ガイズは台本の台詞を読むように感情を排し、マニュアルどおりの言葉を綴った。
「洗濯屋です。看守の方に頼まれて、洗濯物を届けにあがりました。…こちらが、そのシャツです」
 一息に言い切った言葉に、デューラは茫洋とした眼差しのままで頷く。

「…其処に置いておけ」
「は、はい」

 部屋の隅のソファを指差されて、どもりつつもガイズは指示に従った。
 皺にならないようにシャツを注意深く置き、その場から――正確にはデューラの近くからそろそろと離れる。
 ドアの近くまでたどり着いて、ガイズは漸く肩の力を抜いた。
 くる、と机の方を振り返り、勢い良く一礼する。

「それでは、失礼します!」
「待て」
「…………!」
 
 ドアノブに手をかけたとき、背後から予想に違わず声がかけられた。
 びくりと肩が震え、手のひらに嫌な汗が滲む。
「…何…ですか」
「此処に来い」
 命令するデューラの口調は、余りにも自然だ。ガイズが自分の指示に従う事を、欠片ほども疑っていないのだろう。
(俺は…もう囚人じゃない)
 デューラの命令に従う義務なんて無い。だが、今まで彼から与えられた苦痛を嫌と言うほど覚えて居る体は、反発する心とは裏腹に大人しくデューラの声に従っていた。
 相反する心と体の葛藤に、ガイズの足取りは重い。
 それに苛立ったのか、カツカツと踵で机の表面を叩きつつデューラが急かした。
「早くしろ」
「…はい」
 何を従順に答えているのかと、自分に吐き気がする。
 最後の抵抗、というようにガイズは椅子に座ったデューラの手がギリギリ届かない位置で足を止めた。
 そのささやかな抵抗に気付いたデューラは、軽く眉を上げると不意に椅子から乗り出すようにして目一杯腕を伸ばし、ガイズの腕を乱暴に引き寄せる。
「あ……っ!痛!」
 無理な姿勢で引き寄せられ、弾みで腰をしたたかに机にぶつけてしまう。一瞬息が止まるほどの苦痛に、ガイズは思わず声を上げていた。
 ぶつかった衝撃でポケットから飛び出したキャンディが、机の上にカツン、と硬い音を立てて落ちる。
 その音に気をとられた瞬間、顎を砕けそうなくらい強く掴まれた。

「く…………」
 苦鳴を漏らしつつも、未だにいいように扱われる悔しさにガイズは涙の滲んだ瞳でデューラを睨む。
 今なら、払い除けられる。もう囚人ではないのだから、デューラの思い通りになる理由なんて無い。
 だが、至近距離で改めてデューラの顔を、その目を見た瞬間振り払おうと力を入れた腕が強張った。

 ぼんやりとした目は記憶の中のそれと比べればいっそ穏やかにすら見えるのに、その奥に見えるどろりと濁った混沌がガイズを怯えさせる。
 刑務所に居た頃よく彼が見せた、猫が鼠を楽しみつつ甚振るような残酷な光を秘めたあの眼差しよりももっとずっと――怖かった。
 デューラの意図が知れない。その瞳から、図る事が出来ない。
 得体の知れないものと相対する恐怖に、ガイズは背筋を震わせた。


 怯えるガイズに頓着せず、その身体を捕えたデューラは顎にかけた手で震えるガイズの唇をなぞる。
「…今日は、消えないんだな」
「何……」

 『消える』?誰が?ガイズが?
 『今日は』?一体デューラは何を言っているのだろう。

 混乱するガイズを余所に、手にした身体を確かめるようにデューラは手を滑らせる。
「痛…!」
 その手があかぎれだらけのガイズの手をなぞったとき、僅かに伸びたデューラの爪が真新しい傷口を掠った。
 薄い皮で覆われただけの傷口は簡単にぷつりと裂けて再び新たな血を滲ませる。
 小さくあがった苦鳴に気付いたデューラは、ガイズの傷だらけの手をじっと見詰め、親指でその手の甲を軽く擦った。カサついた手はその動きにさえ僅かな痛みを訴える。

「…汚い手だな」
 嘲るような口調ではなく、ただ事実のみを淡々と告げたような言葉ではあったが、聞き捨てならない言葉にガイズはカッとなって眉を吊り上げた。

 この手は、正当に働いて、そして自分ひとりが食べるだけの報酬をに稼ぎ出してきた手だ。
 傷も荒れも、ガイズにとってはむしろ誇りで。『汚い』などと言われる謂れは無い。
 だが口を開こうとした瞬間、デューラが呟いた言葉にガイズは目を見開いた。


「…誰かに、苛められてでもいるのか?」


 それが、『心配そう』な口調だったから。
 本当に、『心配そう』な口調だったから。

 思わず怒りも忘れ、ガイズはゆるゆると首を振っていた。
「いえ…違います」
「そうか」
 ガイズの答えにデューラは短く答えると、握りこんだガイズの指先に己の唇を押し当てる。
 瞳が、じわりと細まった。そしてゆっくりと口角が上がる。白い花がゆっくりと開くような、滲み出すような微笑。



「…よかった」



 常に無いデューラの笑みに気をとられかけていたガイズだったが、それでも吐息のように呟かれたその一言だけは聞き逃さなかった。

 その瞬間の思いを、一体何と呼べばいいのだろうか。

 だが一瞬胸に溢れた思いは、捕えられた手をきつく握られる痛みに取って代わられ、名づけるまでには至らなかった。
 捕えた手をもう逃がすまいと言うように、デューラはきつくきつくそれを握り締める。
 癒えかけた傷口がその圧迫に耐え兼ねてぷつりぷつりと開き、滲んだ血がツゥっと手首を流れ落ちた。


「…覚えておけよ」
 デューラが、笑っている。聖母のような慈愛に満ちた微笑を浮かべた唇と、ヘドロのような淀んだ混沌を映し出した瞳で。

「…お前を苛めていいのは」
 いっそ優しいとも言える微笑。だけど何かおかしい。どこかが狂った、アンバランスな微笑。


「…俺だけ、なんだからな」


 忘れるなよ、ガイズ。




 最後の言葉と共に、デューラの手から力が抜けた。
 ずるりと手が膝の上に落ちる。ぼんやりとだが開かれていた瞼もゆっくりと伏せられ、椅子にもたれていた体が僅かに傾いだ。
 規則的な、深い呼吸音が響いた頃に漸く、彼が眠りに落ちたのだと気付いた。



「…………」
 滲んだ血でヌルついた手を、ガイズはもう片方の手でしっかりと握り締める。
 自分の形を、保とうとするように。



















    

















SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送