5.


「…失礼します」

 小さく呟いて、先程看守二人に招かれた部屋へと足を踏み入れる。
 居ないだろうという予想に反して、二人の看守は揃って部屋の中で待っていた。
 部屋のドアを開けたガイズに気付いたシルヴェスが、待ちかねたというようにガイズに駆け寄り、その細い両肩を掴む。

「…主任は」
「え…?」
「主任は!」

 常は穏やかなシルヴェスの必死の形相に怯んだガイズは、僅かに身を引きつつ口を開いた。

「…あの…シャツを運んだ時には起きていたんですけど…何だか、そのまま眠ってしまったみたいで」
「眠った…」
「は…はい」
「眠った…?主任が?」
 呆然とシルヴェスは目を見開き、うわ言のように繰り返す。そしてガイズの肩に手を置いたままでずるずると床にへたり込んだ。
「シルヴェス!!」
 それ見た傍らのジャーヴィーが、慌てて同僚を支えてやる。
 シルヴェスの異常な反応についていけず混乱する脳内の片隅で、さっきとは反対だな、とぼんやりガイズは考えていた。
 小母さんを心配して、大丈夫だと分かって安心して、へたり込んださっきのジャーヴィーと逆だな、と。

 では彼は、彼の上司を心配していたということなのだろうか。

 でも、如何して?


「そうか…主任は、眠ってくれたのか…。そうか…やっと…」
 小さく呟いて同僚にしがみつくシルヴェスの肩を、宥めるようにジャーヴィーがぽんぽんと叩いてやる。
「あの…一体、何が…」
 訳が分からなくて混乱するガイズは、おずおずと口を開いた。
 その問いかけにシルヴェスは振り返り、軽く目元を拭うとガイズに向き直る。

「…その説明の前に、君に謝らなくてはいけない事がある」
「え?」
「さっき私は『これから巡回に行かなくてはならないから、洗濯物を届けに行ってくれ』と頼んだな?」
「…はぁ」
「あれは、嘘だ」
「嘘…?何で」
 相手の意図が掴めず首を傾げるガイズに、シルヴェスは自嘲気味に笑った。
「…嘘と言うよりは、口実に近いかな」
「口実…?」


「君を、主任の元へ行かせる為の」


 ひく、とガイズの肩が揺れた。
 無意識にか血の固まりかけた手の甲の傷を、幾度も幾度も指先でなぞる。

「…如何してですか。如何して、俺を」
「君に主任を、助けて欲しいから」
 答えるシルヴェスの返答は簡潔過ぎて余計にガイズを混乱させる。
 そんなガイズの様子に気付いたのか部屋の隅で腕を組み、壁に凭れていたジャーヴィーがゆっくりと身を起こした。

「…主任は、イカレちまった」
「ジャーヴィー。そんな言い方は…」
「言い繕ったって、同じだろ」
 ぴしゃりとシルヴェスに言い返して、ジャーヴィーはガイズに向き直る。

「いいか、ガキ。身内の恥だから一度しか言わねぇ。よく聞け。…ウチの主任は、完全にイカレちまったんだよ。仕事中も、仕事が終わってもずっと、頭ン中がどっか行っちまったみてぇにぼんやりしてる。しかも飯を食わねぇし、殆ど眠りもしねぇ。…俺たちじゃ、もうお手上げだ。それどころか医者に見せても…どうにもならなかった」
「でもそんなの…何で俺に…っ」
 告げられた内容にショックを受けつつも、未だ『何故自分なのか』が分からず、ガイズはジャーヴィーに掴みかかる。
「何で俺に!俺は関係ねぇだろ!何期待してるか知らねぇけど、俺、そんなの直せねぇよ!」
「…直せるさ」
「どうして!」


「主任が狂った原因は、お前だからな」


「え…?」
 あの倣岸不遜な男を、狂わせた?自分が?
 胸倉を掴んだガイズの手をゆっくりと外させて、ジャーヴィーは淡々と言葉を重ねる。

「…主任がおかしくなったのは、お前が此処を出て行ってからだ。あの日から主任はぼんやりする事が増えた。食事や睡眠を取らなくなった。症状がエスカレートして…今じゃあの有様だ。部屋から出ることすら出来ねぇ」
「でも…そんなの、時期がたまたま合ったってだけじゃ…」
「決定打があるんだよ」
 先程から黙っていたシルヴェスが、言葉を紡いだ。
「たまたま主任の部屋に入る機会があった時だった。今みたいにぼんやりと宙を見ていた主任が…誰も居ない空間に向かって、呼びかけたんだ」


 『ガイズ』、と。


「…まるでそこに…ガイズ、君が居るみたいにね」
「そんな…」
「どうやら幻覚を見ているようなんだ。…君の」
「不幸中の幸いか何なのか…、まだ主任も、幻覚を本物と思い込む段階には至ってないみたいだがな。…呼びかけている相手が、自分の妄想が作り出したものという事くらいは、辛うじて分かってるみたいだ」
「嘘だ…デューラが…」

 ゆるゆると首を振りながらも、でもその話が本当なら先程のデューラの不審な行動に全て説明がつく、と頭の片隅の冷静な自分が語っている。
 先程のデューラが、本物のガイズを己の作り出した幻覚と勘違いしていたのだとしたら。

 突然刑務所内に現れたガイズに驚きもしなかった事も。

 ガイズの腕を掴んだ瞬間、ほんの少し驚いた表情をした事も。
 
 そして、あの言葉の意味も。…全て、分かる。


『…今日は、消えないんだな』


 いつも…いつも、手を伸ばせば淡雪のように消えてしまうのだろう。彼の作り出した『ガイズ』は。
 だから触れることが出来て、驚いたのだ。


「それに、さっき『主任は眠った』と言っただろう?…それはきっと、君に触れることが出来て、安心したんだ」
「違う…」
「違わない」
 静かな眼差しで、シルヴェスはガイズの小さな抵抗を一蹴する。
「薬を処方しても…何をしても決して眠れなかった主任が、君を前にしただけで安心して眠りについた。それが、何よりの証拠だ」
 シルヴェスの揺らぐ事のない眼差しを受けて、まるで銃口を向けられてでも居るかのようにガイズの体が竦む。


「…確信したよ。矢張り主任を救えるのは君しか、居ない」


 それは心臓を打ち抜かれたような、衝撃だった。

「…何も、此処に戻って来いとか、此処で働けとか、そういう無茶を言いたいわけじゃない」
 シルヴェスの言葉が、どこか遠い。

「例えばこういう風に、今後も此処に洗濯物を持って来て――そのついでに、主任に顔を見せてくれるとか…それだけで、いいから」
 告げられる言葉は余りに現実味を伴わない内容で、ガイズの頭をすり抜けて行く。

「だから、頼む…!君しか居ないんだ。主任を…私達の主任を」


 助けて、くれ。


 懇願するシルヴェスの眼差しを感じながらガイズは瞳を閉じた。
 その瞼の裏に先程目にしたデューラの姿が浮かぶ。

 覇気の無い、開かれただけのぼんやりとした眼差し。
 目の下に浮かんだ隈。
 そして。

『今日は、消えないんだな』
 ――驚いたような、そして抑え切れない喜びを含んだ声。

『誰かに…苛められてでもいるのか?』
 ――本当に『心配そう』だった、眼差し。

『…よかった』
 ――微かな、微かな微笑。


 瞳を開け、目の前の二人の看守を見返して、ガイズはゆっくりと唇を開いた。



























「嫌です」






























 シルヴェスが、溜息をついた。
 ジャーヴィーは分かっていた、と言うように軽く頷くと、手元の控えを引き寄せてサインをする。

 二人とも、何も言わなかった。

 無言でジャーヴィーは控えをガイズに渡し、同じく無言のままにシルヴェスは外への扉を開ける。
 控えを受け取ったガイズは二人に向かって、会釈をした。
 謝罪をするつもりは無い。彼との過去を考えるなら、それは当然の答えなのだから。
 だが顔を上げた瞬間に己の頬を零れ落ちたものに、ガイズは呆然とした。
「え……?」
 真正面に居るジャーヴィーとシルヴェス。至近距離に居るその二人の姿すら、ぼやけて見える。
(…何で…)
 ぽた、と床に雫が零れ落ちた。

(何、で…)

「ガイズ…」
 シルヴェスが何か言いかけて、途中で止めた。
 ぽろぽろと止めどなく涙を流すガイズの肩を支え、無言のままにそっと扉の方へと押し出してやる。
 足が一歩日の当たる地面に踏み出された瞬間、振り返ることもなくガイズは走り出した。



 涙の理由は、ガイズ自身にも分からなかった。
 シルヴェスの懇願を蹴った罪悪感だったような気もするし、それだけじゃない何かがあるような気もしていた。

 (早く、帰ろう)

 籠をしっかりと抱えて。傾きかけた日が金色に照らす道を一人、無心に走る。

 早く帰ろう。
 早く帰って。小母ちゃんの顔を見て、安心させてあげて。
 その後、いつもの店にパンを買いに行くのだ。
 そう言えば、まだ野菜が残ってた気がする。小母ちゃんは今日はとても料理できないだろうから、代わりにスープでも作ってあげよう。
 この間作り方を教わったばかりだから、きっと一人でも出来る。
 ああ、多めに作ってたらルスカにも持っていってやろうか。エバにも。
 過酷な仕事をこなしているくせに、あの二人は健康管理にぞんざいだから。


 足を右、左と前に出しながらガイズは一心に帰った後の事を考えつづける。
 そうでもしていないと、思考がまたあの部屋へと引き戻されてしまいそうだった。

 (『…忘れるなよ、ガイズ』)

 そしてあの暗く淀んだ淵へと引き込まれ、もう二度と戻れなくなってしまいそうだった。


 だから。

 早く還ろう。自分は自分の『在るべき場所』へ。


 足を一歩進めるごとに刑務所は遠く離れ。
 そして、漸くガイズの『日常』が帰って来る。

 























「行っちまったな」
「ああ」
「…残念に思うか?」
「…いいや」

 呟いたシルヴェスは、片手で顔を覆った。同僚の目元で僅かに光るものを、ジャーヴィーは敢えて見ない振りをする。

「『両方は取れない』んだ。…仕方ないだろう」
 独り言のようなシルヴェスの呟きに、返事は返らなかった。



 ガイズが涙を流したとき、思わず口走りそうになった言葉をシルヴェスは思い出す。

『君が泣く事は無いんだ』と。

 だが、それを言ってしまえば、一度ガイズを気遣うような事を口にしてしまえば、一層彼がシルヴェス達の懇願を蹴った事に罪悪感を抱いてしまうだろうから。
 だから、敢えて何も言わなかった。引き止めたい思いを必死に殺して、何も言わずガイズを還してやった。

 彼の居るべき、日の当たる場所へと。

 ――それがシルヴェスの、最後の良心だった。



 デューラの幸せと、ガイズの幸せと。
 両立する事は決して無くて。
 そして最後の最後でシルヴェスは――漸く平和な生活を送り始めた少年の、幸せを守る事を選んだ。



「…後悔は無い。これが正しいのか間違っていたのかは分からないが、少なくとも後悔だけは――していないさ」













        


















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